小学校入学〜最初の先生 2003.3.2
アメリカ話 1
小学校のK(キンダークラス=1年生の下の学年) 地元警察へ校外学習。本物の拘置所に入った6歳の誕生日
1996年3月から2001年3月まで丸5年ニューヨークの郊外、コネチカット州グリニッチに住んだ。
大学時代1年間交換留学でミズーリ州に住んだことがあるので、住むのは二度目。おかげで左ハンドル
右レーンの車の運転に慣れたら、すぐ楽しくなった。(お気楽な性格♪)
勉強と友達関係がすべてだった学生時代と違い、今度は家族といっしょ。まずは5才の息子のため、
幼稚園探しから生活はスタートした。3月という学校年度が終わりかけの中途半端な時期だったため、
あちこちの幼稚園を、まるで体験ツアーのように数週間ずつ渡り歩く羽目になった。
幸い息子はとても順応性があり、また5才の男の子というのは言葉をたいしてつかわなくとも十分
遊べるという年齢だったため、幼稚園初日から「まるで前からいるみたいに、なじんでます」というコメント
を先生からいただいた。半年後の9月、正式に地元の公立小学校に入学するまで、結局6つもの幼稚園
を体験した。本人が「のほほん君」だったからできた荒業。いい勉強になったのは私。
まずは恵まれた環境。広々とした緑の芝の園庭が目にも体にもやさしい。行事はこどもが喜び、
かつ準備に時間をとられないもの。たとえばイースターは、庭にじかにピーナッツやキャンディーなどを
ばらまいて拾わせちゃってエッグハントおしまい。
日本的な凝った発表会などみられず、全体に自由遊びが多かったようだ。そして多くの先生が経験
と貫禄がある中高年女性で、生徒の言うことなんかには絶対動じないようなおばちゃんが主流だった。
幼稚園の先生といえば、日本では若くて元気でニコニコピチピチ系だが、そういうかわいいタイプの
お姉ちゃん先生に、ついぞ一度もお会いすることがなかった。
わが子の誕生日には、クラス全員分のカップケーキをもっていってみんなで食べるという習慣にも
びっくり。カップケーキにはあま〜いアイシングとスプリンクルが振りかけられていないと不評だ。日本的
デコレーションケーキはよろしくない。カップケーキはミックスを使ってオーブンでど〜んと一気に一クラス
分焼く。もちろんスーパーで買ってきてもOK。他にも、絵本を読みにいったり、アシスタントティーチャーに
なったり、親の積極的関与が喜ばれていたように思う。なにもかも、へぇー!ほほーぅ!の連続。
そして無事半年のめまぐるしい助走期間を終え、小学校のキンダー(日本の年長児)に入学。
入学式もなにもない、いきなり3時までの授業である。そこで最初の担任が最高の先生だった。
彼女ミス・マードックは親と子の名前と顔を瞬時に覚え、会えばいつも暖かいコメントをくれた。そして
5・6才児を相手に、声を張り上げることなくいつもスムーズな授業をしていた。その学校は地域では
むしろ低学力の子が多いという芳しくない評判で、少し心配して入れたのだが、やはり学校は担任次第。
一年目は大満足だった。
算数がとても得意だった息子を先生はすぐに見抜き、talented
and giftedという特別枠にも入れて
くれた。英語はネイティブ並みにはほど遠い息子は、ESL(英語が母国語でない子供をつまみ出して
行う特別クラス)にも入っていながら、そのつまみだし優秀児クラスで算数のついでにリーディングも
習っていると聞いて、わたしは驚いた。
「え、え〜?英語はまだまだできないでしょう?」と聞く私に、彼女は「あら、いいのよ。できてるのよ」
と。おぉー、アメリカは太っ腹(=おおざっぱともいう)だと感心した。
おかげで二年目までに彼はかなり読み書きもできるようになっていた。アメリカの子供の読み書きの
スタートは日本のこどもより概しておそいようだ。彼がすぐにみんなに追いつけたのは、スタートの時期が
ぴったりだったからという理由もあろう。
こうして最初に出会った先生が暖かく優秀だったおかげで、彼は本当にいいスタートを切れた。
その後4年間それぞれ別の個性のある先生方に出会ったが、ミス・マードックがベストだったなぁと
なつかしく思う。
今、英語教室をしている私は、うちにきてくれる大多数の生徒にとって、きっと最初の英語の先生という
ことになる。たかだか週に一回会うだけの先生だけど、最初の先生ってやっぱり大切だものね。
がんばりま〜す!
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